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大阪府茨木市の古代史ワンポイント

溝咋神社と古事記

 大阪府茨木市にある溝咋(みぞくい)神社には、玉櫛媛(たまくしひめ)や媛蹈韛(ひめたたら)五十鈴媛命(いすずひめのみこと)等が祭られています。
 『日本書紀』(720年)には、神武天皇の即位前記に、庚申(こうしん)の年の8月16日のできごととして、ミシマミゾクイミミの神の娘(玉櫛媛/たまくしひめ)が、事代主の神と結婚して誕生した娘(媛蹈韛/ひめたたら)五十鈴媛命(いすずひめのみこと)を皇后に迎えたと記されています。
 勿論、この記事をそのまま史実として読むわけにはいきませんが、ミシマ(三島=現在の茨木市や高槻市等)のミゾクイ(溝咋)に関わる女性が、皇后に選ばれたと語られた理由は気になるところです。
 そこで、今度は『古事記』(712年)をひらいてみると、ミシマのミゾクイの娘と三輪の大物主の神との間に誕生した娘が、皇后に迎えられています。『日本書紀』では事代主の神を父としていましたが、『古事記』では三輪の大物主の神を父に選んでいます。神武天皇が九州から長旅をして大和に入り、都したことを考えますと、その土地に祭られる神と近しい関係になることが求められます。『古事記』は、三輪を中心に大和に祭られた大物主の神の娘を皇后に迎えることで、祭政が可能になる様子を表現しています。
 大物主の神については、『古事記』の崇神天皇条に、末裔が神君(みわのきみ)と鴨君(かものきみ)であると記されています。後者の鴨氏に目を向けてみますと、溝咋神社の近くに「三島鴨神社」が存在しています。鴨氏に関わる大物主の神とミシマのミゾクイの娘との結婚は、『古事記』が記された時代の大和と三島の関係を、歴史の一コマとして垣間見せてくれます。
 神武皇后が、ミシマのミゾクイの娘を母と記すことで、天皇家と三島との結びつきは、早い時期から強いと表現されています。三島から皇后を迎えた神武天皇は、別名をカムヤマトイワレビコの命というのですが、『古事記』では、神武天皇と同じように遠方から大和に入った継体天皇が、イワレ(磐余)に都しています。神武天皇が皇后と結んだ三島との関わりを、継体天皇条が一層強めていると読み解くと、継体天皇陵が三島に位置する理由も理解できるように思われます。『古事記』には、溝咋神社に祭られた皇后を介して、神武天皇から継体天皇へと連なる三島との関わりが、導線のように認められます
 このように大和に都する天皇と三島「溝咋神社」の関わりを語る『古事記』は、2012年に撰上1300年を迎えます。じっくり読んでみると、まだまだいろいろな発見をすることができそうです。



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茨木市・高槻市「中臣の里」の散策地図です、印刷してお使いください。(拙稿「中臣の里」茨木-古代史と文学の研究から観光の提案まで- 2011年3月 梅花女子大学『文化表現学部紀要』7より)

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